脳と心理と、その使い方

数えることに集中した人は、目の前のゴリラが見えない

非注意性盲目(見えないゴリラ実験)

紹介動画は準備中

一言でいうと

バスケットボールのパスの回数を数える動画を見せる。その最中、ゴリラの着ぐるみを着た人が画面の真ん中をゆっくり横切り、胸を叩いて去っていく。パスを数えていた人の約半数は、そのゴリラにまったく気づかなかった。集中は、目の前のものすら見えなくする。

論文が実際に言っていること

有名な「見えないゴリラ」実験だ。被験者は、白チームと黒チームがバスケットボールをパスし合う短い動画を見る。課題は、白チームのパスの回数を正確に数えること。数えることに注意を集中している間に、ゴリラの着ぐるみを着た人が画面を横切る。9秒ほど画面にいて、中央で立ち止まって胸を叩きさえする。

動画のあと「何か変わったものに気づきましたか」と尋ねると、条件によっては半数近くが、ゴリラをまったく見ていなかった。目は開いていて、ゴリラは視野の中央を通っている。それでも見えていない。

これを非注意性盲目(inattentional blindness)と呼ぶ。網膜には映っているのに、注意が別のところに割かれていると、意識に上らない。しかも興味深いのは、気づかなかった人の多くが、後で種明かしをされると「そんなものが見えるはずがない」と驚くことだ。自分が見落としたという事実自体を、予想できない。

私たちは、目の前で起きたことは当然見えている、と思っている。だがこの研究は、見えているのは注意を向けたものだけで、それ以外は、堂々と目の前にあっても意識から抜け落ちる、と示した。

だから、どう生きるか

「見ていたのだから気づいたはず」という確信を、手放す。

これがこの研究の芯だ。何かに集中していたとき、自分が見落としたものについては、そもそも見落としたことにすら気づけない。だから「その場にいたのだから、何かあれば気づいたはずだ」という確信は、あてにならない。会議で、運転で、人との会話で、自分の注意が別の一点に固定されていたなら、その周りで起きたことは、まるごと抜け落ちている可能性がある。

自分の見落としを前提に動く。重要な場面では、一つのことに没入しきる前に、あるいは没入から抜けた後に、意識的に視野を広げて周りを見直す。集中の代償は、周辺への盲目だと知っておく。

探しているものしか見つからない、と自覚する。

注意を向けたものだけが見える、ということは裏返すと、あらかじめ「これを探そう」と決めたものは見つかるが、想定していないものは見えない、ということだ。ある仮説を握って探すと、それに合う証拠ばかりが目に入り、枠の外にあるものは、目の前にあっても素通りする。時々、何も探さずに、ただ全体を眺め直す時間を持つ。

AIに問いを立ててもらうと、AIの枠の外が見えなくなる。

いまの文脈では、こう延ばせる。AIに「何を見るべきか」を決めてもらうと、私たちの注意はその枠に固定される。すると、パスを数えるよう指示されてゴリラを見落としたのと同じで、AIが立てた問いの外にあるものが、視野から消える。答えの精度が上がるほど、枠の外への盲目は深くなりうる。だから時々、AIが立てた枠そのものを疑い、「そもそも何を見落とすように仕向けられているか」を問い直す。

ここからは僕の飛躍だ

この実験は、特定の課題(パスを数える)に注意を集中させた、かなり特殊な状況で起きたものだ。日常のあらゆる場面で同じ割合の見落としが起きる、と一般化するのは行き過ぎになる。

「AIの枠が盲目を作る」は、非注意性盲目を今の道具に延ばした僕の解釈で、この論文が扱った範囲ではない。

それでも、注意を向けたものしか意識に上らず、見落としたことにすら気づけない、という中核は、多くの追試で確かめられた頑健な現象だ。自分の知覚を、完全な記録ではなく、注意で切り取られた一部として扱うこと。それがこの一本の使いどころだと思う。

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