他人の失敗は「性格」、自分の失敗は「状況」のせいにする
基本的な帰属の誤り
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一言でいうと
誰かが約束に遅れると、私たちは「だらしない人だ」と、その人の性格に原因を求める。渋滞や急な事情という状況を、軽く見積もる。ところが自分が遅れたときは、状況のせいにする。人の行動を、状況の力を過小評価し、内面(性格・態度)に帰属しすぎる——この根強い偏りを、著者は「根本的な帰属の誤り」と名づけた。
論文が実際に言っていること
社会心理学者ロスが、人が他者の行動の「原因」をどう推し量るかを論じた、影響力の大きい章だ。人は日常的に、他人の行動を見て、その原因を推測する「素朴な心理学者」として振る舞う。だが、その推論には系統的な歪みがある。
中心にあるのが、後に「根本的な帰属の誤り(fundamental attribution error)」と呼ばれる傾向だ。人は、他者の行動を説明するとき、状況の力を過小に、その人の性格や態度を過大に見積もる。
象徴的な実験がある(同僚のジョーンズらによるもので、ロスが論じている)。被験者に、ある人物が書いた小論を読ませる。「この人は指定されて、無理やりこの立場で書かされた」と明かしても、読み手は「書いた本人も、内心そう思っているのだろう」と、態度を人物に帰属してしまう。状況(強制)を知らされてなお、である。
もう一つ、ロス自身のクイズ実験も有名だ。くじで「出題者」と「解答者」の役を割り振る。出題者は自分だけが知っている難問を出す。当然、解答者は答えられない。すると観察者は、出題者を「博識だ」、解答者を「知識が乏しい」と評価した。役割という状況が有利・不利を作っただけなのに、人は能力の差として読んでしまう。
私たちは、行動の背後にある状況の圧力を軽んじ、「そういう人だから」という説明に飛びつく。
だから、どう生きるか
他人の一つの行動から、性格を決めつけない。
これがこの研究の芯だ。誰かの不機嫌、失敗、無礼を見たとき、私たちは反射的に「そういう人だ」と結論づける。だが、その行動の多くは、こちらから見えていない状況——疲労、事情、制約——の産物かもしれない。相手の性格を断じる前に、「自分がその状況に置かれたら、どう振る舞うか」を一度想像する。たいてい、状況の力は思うより大きい。これは、普通の人が状況しだいで残酷になれるという発見とも、同じ方向を指している。
自分に対しては、逆の偏りに気づく。
面白いことに、この偏りは自分には働きにくい。自分の失敗は状況のせいにし、他人の失敗は性格のせいにする——この非対称は「行為者・観察者バイアス」として知られる。だから、自分と他人を、同じ物差しで測れているかを点検する。他人に「言い訳するな、それはお前の問題だ」と感じたとき、自分の同じ失敗に、どれだけ状況の言い訳を許しているかを見る。
AIが下す人物評は、状況を捨象しやすい。
いまの文脈では、こう延ばせる。AIに誰かの言動を要約・評価させると、その人の「性格」や「傾向」として整理された答えが返ってきやすい。背後の状況や文脈は、データに乗りにくく、こぼれ落ちる。すると、根本的な帰属の誤りが、もっともらしい言葉で強化されうる。人についての評価を受け取るときは、「この判断は、状況の力をどれだけ織り込んでいるか」を一度差し込む。
ここからは僕の飛躍だ
根本的な帰属の誤りは有名だが、その普遍性には議論もある。文化差の研究では、状況を重視する傾向が強い文化もあると報告されており、「人類共通の誤り」と単純化するのは慎重にすべきだ。
「AIの人物評は状況を捨てる」は、この偏りを今の道具に延ばした僕の解釈で、1977年のこの章が述べていることではない。
それでも、人は他者の行動で状況の力を過小評価し、性格に帰属しすぎる、という中核は、社会心理学の基本的な洞察として広く支持されている。他人を裁く前に状況を、自分を許す前に一貫性を——その二重の点検が、この一本の使いどころだと思う。
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